迫害されるブログ「苦しみ続ける動物達のために byさっち~」

2010年。毛皮問題を知ったのを機に、動物の闇・真実を暴くブログを開始。しかし迫害行為に遭い続け貴重な情報を綴ってきたアメブロ・FC2のブログを強制的に閉鎖されてしまいました。その後FC2は奇跡的に復活できたものの、またいつ消されるか解らない貴重な記録の数々。理不尽な暴力行為に苦しむ動物達の声を消さないために、2020年1月保存用にこちらのブログを新たに立ち上げました。

太地町のイルカ漁の嘘を暴く「ザ・コーヴ」続編が計画中♪イルカを殺す太地町イルカ漁師の声と、不正を暴きイルカを守る富戸の元イルカ漁師の声。 #イルカビジネスに終止符を

太地町のイルカ漁問題を世界中に広めるきっかけとなった映画「ザ・コーヴ

その続編が現在計画されているとのこと。

「漁師たちを永久に黙らせる」らしい。

マジ~♪かっこ良すぎ~♪^^*

ネットでは洗脳された気の毒な差別主義者な人達がまた「伝統文化に口出すな!」「白人は黙ってろ!」等、アホの一つ覚えで相変わらずガタガタ騒いでいましたが、

映画「おクジラさま」でも、

~現在はイルカを苦しめる事なく一瞬で殺している~と言ってた太地町の嘘がどんな風に暴かれるのか超楽しみです。

太地町は「家畜動物や他の生き物の屠殺だって公に見せることはない。一般に公開して見せるようなものではないからだ」と言いますが、

正当性を理解してもらうために、屠殺場見学を設けている屠殺場もありますので、(実際私は観てきましたし)その主張は一切受け入れられないですね。

一瞬で殺しているというなら、それを堂々と見せて証明して周りを黙らせれば良いのではと思うのですが。

太地町のイルカ漁師の皆さん、そう思いませんか?

その自信満々の屠殺方法を是非公開なさってください!!!

それでもまあ「殺し方」の問題の話ではないので、それを証明されても気持ちが変わることもないのですが、笑

今より周りがガタガタ騒ぐことはなくなると思いますよ?

しかしこちらの新作映画に関して懸念される点もあります。

イルカ漁の問題になるといつもシーシェパードの話題が出てきて海外の人たちばかりが敵対視されるという構図、

そして日本人のアホの多くは偏向報道が定番のメディアの情報を鵜呑みにして、「太地町 VS 外国人」という問題の本質から離れた部分で盛り上がってしまうので、

それがまた助長されるのではないかということ。

せっかく新たに映画を作るのなら、今回はイルカ漁に反対している日本人の声も入れて貰いたいですね~。

イルカ漁に反対している日本人たくさんいますからね。

訴えが正しい正しくない以前に、日本に徹底的に染みついてしまった反捕鯨=外人のイメージから払拭していかなければならないと私はずっと思っていることもあり。

だけど、この映画を応援したい気持ちでいっぱいなことは言うまでもありませんが♪

因みに今週末は太地町で日本人主催の活動もあります♪

「太地イルカ猟廃止を求めて@taiji Action」

https://www.facebook.com/events/880070512171603/

また3月11日には私も主催に加わり大阪でデモ行進も予定しています♪

捕鯨映画、続編を計画 「ザ・コーヴ太地町のイルカ漁批判  - 産経ニュース

http://www.sankei.com/west/news/180204/wst1802040010-n1.html

2018.2.4 07:25

 和歌山県太地町(たいじちょう)で行われているイルカ漁を批判的に描き、米アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した映画「ザ・コーヴ」の制作団体が続編の公開を計画していることがわかった。産経新聞の取材に関係者が「今春にも制作したい」と明かした。2009年に発表されたザ・コーヴは世界中で公開され、日本の捕鯨やイルカ漁への批判が強まった端緒になった作品だけに、続編の公開により、国際世論の圧力が高まることが懸念される。

 続編は日本語と英語で編集された「日本メディア向けの短編」で、制作団体「OPS」のサラ・アリ氏は「未公開映像をもとにした新作品だ」と語った。

 太地町には「ザ・コーヴ」に出演した米国のイルカ保護活動家、リック・オバリー氏の支持者や反捕鯨団体シー・シェパード(SS)のメンバーが訪れ、漁師らへの嫌がらせを続けている。続編は、現地で活動家らが撮影した映像が用いられる可能性がある。

 アリ氏は続編制作のきっかけは昨年の「国際メディアの報道」だと説明。12月に報じられた英紙ガーディアンの太地町ルポのことを指すとみられる。記事では、苦痛を与えずにイルカを即死させるため、改良された手法を用いているとの太地町の漁師の証言が紹介された。アリ氏は「漁師の主張に反論する。(続編の公開で)漁師を永久に黙らせる」と述べた。

 OPSは続編制作のための寄付を募っており、17万5千ドル(約1900万円)を目標額に設定。世界中の反捕鯨派に協力を呼びかけている。

ザ・コーヴ 題名は「入り江」の意味で、古式捕鯨発祥の地である和歌山県太地町が舞台となった作品。イルカ保護運動家、リック・オバリー氏らが出演し、漁師がイルカを入り江に追い込んで漁をする様子などを隠しカメラで撮影した。2010年に米アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した。

~転載終了~

上の記事に出てきている「12月に報じられた英紙ガーディアンの太地町ルポ」とはこれのことです。

英カーディアン誌では、太地町のイルカ漁に反対側の記事が取り上げられたことはあっても、太地町のイルカ漁師らの声が取り上げられたのはこれが初だと聞きました。

なのでより騒動が大きくなった部分があるとも言えます。

https://www.theguardian.com/world/2017/dec/11/not-ashamed-dolphin-hunters-of-taiji-break-silence-over-film-the-cove

「おクジラさま」の佐々木監督が、カーディアンの記事を翻訳してくれていたので掲載しときます。

【ザ・ガーディアン記事全訳】

1ダースほどの男たちが波止場に集まって焚き火で暖を取っている頃、太地はまだ闇に包まれている。町がまだ眠って居る頃、熱い缶コーヒーをすすり、タバコを吸いながら静かな声で語り合り合う漁師たち。

半島から太陽が少しだけ顔を出すと、彼らはすぐに船に乗って獲物を探しに行く。イルカを。

アカデミー賞受賞作品「ザ・コーヴ」によって、この日本の太平洋岸の端で孤立する町が、食と娯楽用のイルカの利用を巡って厳しい議論の中心に引っぱり出されてから8年が経つ。

刃物でイルカを屠殺し海が真紅に染まる映像は、世界中の観客に衝撃を与えた。

国際的な注目を浴びたることに慣れておらず、ソーシャル・メディアに長けた敵に不意打ちを食らわされて、人口3200人の町の住民は単に身を隠すしかなかった。町の関係者はインタビューに一切応じず、漁師は沈黙を誓った。

しかし何年も沈黙を守った後、太地の漁師はやっと口を開き、自分達の仕事について、捕鯨の伝統について、そしてイルカ漁を続けることへの決意について、ザ・ガーディアンに語った。

「我々は、ザ・コーヴ以降、ほとんど沈黙してきたのです。だから我々の視点がメディアで紹介されることはなかった」と太地町漁協参事の貝良文は言う。シー・シェパードや他の活動家は、わざと衝突を演出しては撮影してネット上に上げ、シートで覆ってその下で捕殺するのは後ろめたい事をしている証拠だと言う。沈黙を守ってきたのは、こうした事情からだと貝は言う。

「活動家は、我々が何か不道徳なことをしていると知って隠しているのだというが、ナンセンスだ」と言う。「家畜動物や他の生き物の屠殺だって公に見せることはない。一般に公開して見せるようなものではないからだ」

太地町の最も古い沿岸捕鯨の記録は、1600年代初期まで遡る。町のくじら博物館の絵巻には、仏教と日本の土着の宗教である神道のモチーフが描かれた数ダースもの船が描かれている。船が追っているのは、町民を数ヶ月に渡って生きながらえさせてくれるに十分な大きさのクジラだ。

「外国の活動家たちは、なぜこのような可愛い動物を殺すのかと言うが、我々にとっては今でも貴重な食料源なのです」と太地町長、三軒一高は言う。「私が子供の頃は、クジラが獲れると三分の一の町民が皆海辺に集まってクジラが持ち帰られるのを迎えたものだ。クジラの肉を食べるのが楽しみだったからだ。我々は、クジラに感謝の気持ちを持っている。そのことを西洋人に理解して欲しい」

漁師がイルカや他の小型鯨類を殺すのは、公共の交通手段が発達する以前、他の食料がない時にご先祖さまが生きながらえてきた伝統を続けるためだ、と三軒は付け加える。

「ここでは米も野菜も育たず、淡水もなかった。生き延びるためにクジラを殺すしかなかった。そのために数百人が犠牲にもなった。ここは、生き延びるのがとても大変な土地だ。我々は先祖が払った犠牲にとても感謝している。今日我々がこうして生きていられるのは、そのおかげなのだから」

三軒によると、太地の全て、高齢者へのサービスから教育、観光のインフラまでが、動物園や水族館へのイルカの売上に頼っている。インタビュー中に、三軒は何度も「くじらのめぐみ」という言葉を使う。「捕鯨によって、この町は機能しているのです」と。

リモコンと水中に隠しカメラを使って、「ザ・コーヴ」は太地の不名誉な追い込み漁の映像を捉えた。前駐日米大使のキャロライン・ケネディもその批判者の一人だ。

通常、漁師たちはイルカの群を海上で追い、金属の棒を叩いてイルカの繊細な聴覚を撹乱して狭い入り江に追い込む。そこでイルカは食用に屠殺されたり、(生け捕りにして)水族館や海洋娯楽施設に売られる。

食用のイルカ肉は少ない利益しかもたらさないが、太地の漁師はイルカの生体一頭につき、ブローカーから8000米ドルの売上を得ると言われている。完全に訓練されたイルカであれば、海外に売るとすると一頭につき4万ドル、日本国内だとその半値で売れる。

9月から4月にかけてバンドウイルカやゴンドウクジラなどの小型鯨類を負う20人余りの太地町の漁師は「おクジラさま」というドキュメンタリー映画の公開によって勇気づけられた。この映画は、ニューヨークをベースにしたドキュメンタリー映画監督、佐々木芽生の作品で、一方的に描かれた「ザ・コーヴ」に反論して、問題の複雑性を訴えている。

映画を制作中に、太地を巡る議論は解決策を見いだせない文化の衝突だという結論に達したと佐々木は言う。それは、グローバル社会、西側主導のアニマル・ライツ運動に対して、宗教と先祖崇拝に基づく地方の伝統の衝突だ、と。

捕鯨は、町をつなぎとめる接着剤のようなもの」

「イルカが地元にとってそんなに大切な生き物なら、なぜ殺すのか?多くの西欧人にとって、そこが最も理解できない点でしょう」と佐々木は言う。「日本人にとって動物は食料資源であり、人間ができないようなことができる特別な生き物とは捉えないのです。それは、全く違う考え方です。捕鯨は、この町をつなぎとめる接着剤のようなもので、地元のアイデンティティや誇りと切っても切れないものです」

貝は、漁師がイルカを残虐な方法で捕殺しているという主張に意義を唱える。「我々の仕事の仕方は時代ともに変わってきました」批判に対応するために、漁師はナイフをイルカの首に刺し入れ、脳幹を麻痺させる。彼によると、これが最も人道的な捕殺方法だということだが、この方法でも苦痛を伴い、即殺はできないと反論する専門家もいる。

今では太地の海岸線で衝突が起きることはないが、活動家たちは、常に早朝に出港する船の写真をツイッターに投稿している。

漁師たちは、海外の活動家たち―最初はシー・シェパードと、その後はイルカの調教師から活動家に転じたリック・オバリーが組織したドルフィン・プロジェクトとー不安定な休戦状態にあるようだ。

しかし、両者の間に対話が生まれる可能性は殆どない。「彼らは、全く聞く耳を持たない。ただ我々を挑発したいだけなのです」と、いさな組合長の小畑充規はミンククジラの刺身とクジラ脂身を薄く切った炊き込みご飯を食べながら言う。

「彼らは、我々の仕事を何とか邪魔するためにここに来るのです。だから彼らと関わる意味はないと思っています。我々が何を言おうと、彼らは決して考えを変えないでしょう」

自宅から持参したコビレゴンドウの腹肉の炒め物を指差しながら、小畑は付け加えた。「冷蔵庫がなかった時代には、こういう肉はみな塩漬けにしたんですよ。勿論、今日では他にも沢山のたんぱく源はあるけれど、我々や上の世代には、自分達が食べたいものを食べる権利があるはずです」

貝と小畑は、佐々木のドッキュメンタリーが、太地に10年近く影を落とした議論に多少なりとも均衡をもたらすと期待している。

二人が言うのは、太地で捕殺する小型鯨類は2千頭以下で、日本全体の捕獲枠の10分の1にすぎない。そしてどの種も絶滅危惧種ではなく、1986年に施行された商業捕鯨モラトリアムで規制されていない。

「我々は、イルカ漁を恥じてはいないし、決して止めるつもりもありません」と貝は言う。「我々の地元の伝統で、最も大切な部分だからです。周りを見てみて下さい。海から生計を立てなければ、何も残りません。人々は、捕鯨を辞めて他に生活の手段を得なさいと言う。でも、一体我々に何ができるというのですか?」

ー終ー

~転載終了~

イルカ漁師は特別に守らなければいけない存在なのだろうか?そんな風潮を恐ろしく思う。

一般的な社会では、突然会社を辞めさせられたり様々な事情で今までの職を手放さねばならない状況になる人が山ほどいる。

そういう人達の多くは次に生きていく道をまた必死に探し新たな道を歩んでいると思う。

別の理由でキレることはあったとしても、常識的に考えて、周りの人に「自分に何が出来るというのか?」っとそんな風にキレた人を少なくとも私は見た事がない。

「一体何ができるのですか?」

自惚れがひど過ぎるし相当感覚がおかしいと思います。

一方こちらは、自らイルカ漁師をやめて現在はイルカ保護側に立っておられる富戸の有名な石井泉さんが最近語られたお話です。

太地町のイルカ漁師の皆さんの中にも石井さんのような心を持っている方、不正に立ち向かえる方がいるのではないかと私は思っているのですが。

上記の映画の件と話はずれるかもですが貴重なお話なので、掲載させて貰います。

FACEBOOK石井さんより

https://www.facebook.com/izumi.ishii.39/posts/1653506851396229

© Izumi Ishii KOHKAIMARU 石井 泉

あれからすでに21年経った。

あれからの顛末を皆さんに述べさせていただきます。

あれからとは・・・

96年10月に行われた富戸のイルカ捕獲。

その時に獲ってはいけないクジラ、獲りすぎてはいけないイルカを捕獲枠違反してしまったことだ。

 今さらその時の事を蒸し返そうということではないことを事前に申し上げておく。

あくまでも富戸のイルカ捕獲の歴史ということで話を続けよう。

当時、幾多の団体、個人、メディアの指摘する通りの・・違反操業事件が起きた。

イルカ捕獲最前線で仕事をしていた私は、よもや捕獲枠があろうとは知らず港に追い込んだすべてのイルカやクジラを

水揚げすることを当然ながら考えていた。

しかし・・真相は捕獲枠違反という事実だった。

組合支所のいわゆる責任者たちが捕獲枠があることを知りつつ、作業する私たちには知らされてなかった。

テレビ局が執拗に私たちの最高責任者を追いかけまわすので、そしてその行動を漁師仲間は誰一人止めようとしなかったことで私がテレビ局に立ちはだかり、最高責任者を追いかけまわすことを阻止し、私がインタビューを受けることになった。

違反だろうと言うテレビ局に対し、私は「俺達はイルカやクジラは魚だという認識をしている。学者たちだけが哺乳類だと分類しているが、海にいるものすべてが魚の仲間だ!!」と主張した。それが二日間にまたがりインタビューが放送された。特にTBSの「ニュースの森筑紫哲也のニュース23(当時の番組名です)」を見たと思われる視聴者から、電話が来て『よく言った、当然のことだ』などのたぶん漁師の関係者だと思われる人たちから絶賛的な内容の意見をいただいた。私はそれを自惚れるかのような気持ちでいた。

しかし・・・事件が起きた(既に起きていたことなのだが)。

私の自惚れているのがすべて吹き飛ばされた事実が分かった。

 『捕獲枠違反』だった。

そして私は愕然とした。

日本中に放送された私のインタビューが間違いだったということだ。

たとえ知らされていなくても、捕獲枠がありながら捕獲違反をしてしまったことが事実だった。

それ以後私はどうしたらよいかを考えた。

そこで・・・

捕獲枠があるならば捕獲枠を守っていれば資源が増えて、やがては捕獲枠を広げてもらえることになるだろうという私ながらの結論を出した。

そこで・・私は組合側に提案をした。

それは・・「捕獲枠違反だったことを認めよう」というものだった。しかし組合側はそれを拒否した。

だから・・・私は当時組合の総代の一員だったので、個人的な総代報告書として組合員に私が主張した文書をB-4サイズにびっしりと書き(イルカの事だけではなく他の問題もも含めて)住所氏名そして実印を押印しそれを配った。

自分の言い分の責任を持つという意味で実印まで押印した。

正組合員には賛否両論というより私に対する批判が多かったようだ。当時、組合員には正組合員(私も含む)と準組合員がいておよそ500人近くいた。

準組合員の中には私に賛同する意見もたくさんあったようだ。それをコピーして一般の人々にも配ってくれた人もいた。やがてそれがもとで、組合が急きょ青年部という部を作り、青年部主催の会合が開かれ、私もその会合に呼ばれた。

参加人数はおよそ50人の正組合員と富戸支所の職員だった。会合が始まる前に私は確認をしたことがあった。

会合を進行させるために3人の若者(当時)が前に相対するように座っていた。

要するに雛段的なことだ。

その彼らに正した。

『青年部ということだから部には長がいるはずだ、誰が長なのだ?』

答えはすこし間が空いたが『有志です』との答えに

すかさず私は「有志の代表は誰だ?」の質問に対し誰も答えることが出来ずに沈黙。

「よし、それでは議事進行をする人に責任者になってもらう!この会合で何かあったらすべての責任を受けてもらう」ということに対し誰も返答はできなかった。

議事進行掛の若者が手にする書類がとても震えていたのは今も鮮明に覚えている。

そして始まった会合の内容はとてもひどいものだった。

それは・・・

『もし捕獲枠が無くなったら光海丸に責任をとってもらえ』

『謝れ』

『お前も参加して日当をもらっただろ!』

『死活問題だ』

『組合員をはく奪しろ』

『富戸から追い出せ』

『船を他の港に追い出せ』

そして・・

当時の支所長の意見として・・・

『謝って責任をとってもらいたい』

しかし彼は捕獲枠があることを知っていた一人である。

他の組合員からは、私に対しつかみ掛からんばかりで暴力を受けることも覚悟するほどのすごい剣幕で迫ってきた人もいる。

しかし私は何を言われようとも動じることなく・・

「それならば告訴してくれ、そうすればいいではないか」

とあっさりと提案した。

それには一同黙ったままだった。

そりゃぁそうだろう。

裁判になれば真実が明らかになって負けるのは組合側なのだから。

前述した『死活問題だ』の意見に対し・・

「年間に2~3回ほどのイルカ捕獲に参加してどれほどの収入があるんだ!一日当たりの日当は一万円に満たないのに本当に死活問題なのか?そして、違反操業して得た売り上げは富戸に残るのではなくて伊東の本所にやがて行くのだろう、そうなのにあなた方は俺を吊し上げる価値があるのか?!」・・・。みな押し黙ってしまった。

俺は何を言われても腕組みして頑として彼らに屈することはなく、「俺を告訴しろ」に徹した。

その会合の中で非常に残念なのは・・・

違反操業当日に組合員になっていなくて、それ以後に組合員になったダイビングのインストラクターとして富戸に住んでいた県外から来た若者も含まれていたことだった。彼らはインストラクターから組合の定置網の従事者として就職したのだった。たぶん彼らは組合側から給料をもらう立場だから自分が関係していなかった事柄に対しても参加しなければならなかったと思われる。

そして青年部の会合は膠着状態になり、退席を求めたので私は帰った。

その後会合は続き、私の経済状態や船を建造するための借入金などのことを、監査役と支所長が皆に教えてしまったのである。要するに、「組合からこのようにしてもらっているのにあいつはとんでもないことを組合にしている」といいうことだったのであろう。しかし・・・支所長や監査役が言うべきことではないことが明白だったので、彼らを一人ずつ告訴して、損害賠償を勝ち取ったのである。(申請は私がした)

さらに、下田海上保安部から電話があり、事情を聴きたいので出頭する要請があり次の日に9時ごろに行った。

午前中は事情聴取。

午後からは『あなたも被疑者として取り調べるがそれでもいいか』ということになり、

「当然です、私だけ良い子になる考えは全くない。いつでも犯罪者として覚悟しています」と告げると

それから午後7時ごろまで調書を取られた。

俺はそれでもいいと考えていた。

それから約一週間後、保安部から電話があり

『誠に申し訳ありませんが保安部としてこれ以上の行動はできない・・・、実は罰則規定が無かったのです』というものだった。翌年に罰則が出来たようだ。

そこまでに事件化されているような事案に、

組合側も、静岡県の水産課、そして水産庁も、

組合が否定し続けることをうのみにして、私への事情聴取は一切なかった。新聞の記事にも水産庁のコメントが掲載されているのにも、違反操業についてはなかった。

誠に残念だった。

当時の県の水産課のイルカ問題の担当の人(S氏・・女性)

と電話で会話したときも最初は私の言うことを否定していたが、だんだんと私の言うことを認めざるを得なくなった。

私はその会話のすべてを録音した。今でもそれを持っている。

私の主張することを静岡新聞と伊東の地元の豆州新聞に掲載された。

にもかかわらず、前記三者は否定をすることを続けた。

それからおよそ三年間は私は富戸の漁師とは一切あいさつなどの会話をしなかった。(私の行動を理解してくれる漁師以外)

それについてはとても楽なことだったことは今も滑稽だと思っている。漁師は先輩後輩の縦社会的で(私はそのように思っている)たとえ嫌な先輩でも、会えば「おはようコンチハこんばんは」と挨拶をするわけで、それもしなくてもよかったからとても楽だった。

その後2002年5月に山口県下関市でIWCの総会があり、私は会場に入ることが出来た。当時私は伊東にあるFM局でボランティアのパーソナリティーをしていて一時間番組を持っていた関係で、メディアの人間としてパスをもらうことが出来た。

その会場のプレスルームでイルカ捕獲には参加しないで

その替わりイルカウオッチングを始めるということを世界中に発信してもらった。

その第一回のイルカウオッチングは同年9月25日に行われ、イギリス、アメリカ、オーストラリア、等々の外国の方が来てくれて、マッコウクジラの発見もあり大成功を収めたことは世界中に広まったことを覚えている。

その時に私だけでなく私の趣旨を理解してくれた船が一隻あり、その船には報道陣が乗り二隻でウオッチングをした。

その時の模様は今でもユーチューブで見ることが出来る。

それ以来ウオッチングを漁の傍ら続けている。

今の現状では富戸はイルカ捕獲をすることが出来ない状態になっている。勿論、組合側は捕獲することを未だに主張していて、捕獲枠もある。しかし私は現職の漁師の立場からはっきりと断言できる。「もはや富戸はイルカを捕獲することはできない」と。

その根拠について話を進めよう。

富戸は湾の隅が入り江になっていてそこに防波堤を作って港にしている。

イルカはここに追い込まれる。昔は港前でイルカを捕獲し船に積み込んで防波堤港に運んだ。

その後・・港まで追い込むことが出来るようになってから、

網で囲ってイルカにトドメを刺し血だしして陸に引き上げた。

そしてその後、生きたまま陸にあげて止めを刺すようになった。私は「イルカを殺すなと主張してきた」それは今も変わらない。

私はかつて、イルカ発見するための船に乗って探索した経験がある。三隻の探索船に私は乗務した。その時の探すという能力が今はウオッチングのために活用されている。

数年前に・・・

魚を獲るための『定置網』の移動をする問題があった。

会合があり、船を持っている人たちの賛成が無ければ移動そることが出来ないという条件だといわれていた。

なぜならば網の位置を移動すると明らかに船を持っている一本釣りの漁に邪魔になるからだ。

それまで富戸の湾に対し沖に向かって右端に網があった。

だからこそ湾にイルカを追い込むことが可能だった。

しかし、網での水揚げがほとんど赤字続きだったのは昔からだった。それでも組合は赤字続きの網を解消しようとはしなかった。だがあまりにも赤字が多い網に改善策として湾の中央に近い場所にそれまでの網よりも大きい網を移設する計画が持ち上がったのだ。だから、一本釣りの船首たちは口々に反対をした。そして、定置網の従事者が賛成してくれるようにと私の家まで来たらしい。その時に私は在宅しなかった。

そして当日、組合長以下組合の職員が同席する会合が開かれた。それまで口々に反対を表明していた船主からは全く反対意見が出なくて・・時間だけが過ぎた。私の心中は、反対表明するのならすればいいのにと思っていたが・・。

要するに、反対意見をする勇気が無かったか、それとも誰かが言うだろうと思いこんでいたのだろう。しかし反対意見は出なかった。私は賛成論を持っていた。そして俺は口を開いた。「賛成する」・・・・

賛成するにはそれなりの論理が必要と考えていた。

定置網があることによって、プランクトンが付いてそれを食べに魚たちが集まってくると言う食物連鎖を言い、網は漁礁の働きをするという根拠(持論)を言った。その間10分以上の私の理論に誰しもが反対表明することはなかった。

あとから聞いたのだが、一人でも反対意見があれば網の移設が出来ないということだったらしい。しかしそれは定かではなかったが。私の賛成意見に対抗して反対を言う人がいなかったのは事実。たぶん勇気も無かったのだろうか?

さらに付け加えたのは・・・「賛成はするが経営状態は組合が責任を持って経営すること」で、賛成して赤字だった場合私にも責任が及ぶことを避けるためだった。

そして、期間は5年ということで移設したが、いまだに経営改善されず、赤字状態が続いているようだ。一年だけ黒字になったこともあるようだが・・・昨年は大幅な赤字で、赤字対策の保険に入っていてそれを適用した。今年度もたぶん赤字だろう。

不思議なことに、昔から赤字になったことに対する責任問題が生じなかったのもおかしなことである。今度聞いてみようと思う。誰が責任をとるのかと。あまり赤字が続くようであれば、株主代表訴訟も視野に入れていることもある。

だが、富戸ではダイビング事業が黒字で、富戸だけでは定置網が赤字でも全体では黒字なのだ。定置網の累積赤字は私が把握しただけでも数億円だと認識している。

漁のことだからいつかは好転することを期待しているのだが・・・・・。

ところで・・・肝心の定置網移動に賛成した大きな理由を言わなくてはならないだろう。

従来の網に比べて大きくなったようだ。

一見、網は水面に浮いている沢山の浮きの規模だと思うだろうが実際には網を固定するとても多くの固定用のアンカーロープが必要だ。そのアンカーロープはとても遠く離れた場所に打ち込まなければならない。すなわち・・・かなり緩やかな角度で海底から網まで斜めに水中を専用している。

もし、イルカの追い込みをする場合、イルカ達の行く手を阻む障害物になるはず。イルカ達は障害物を目で確認する前に彼らの音波(出しているといわれている)で障害物(網やアンカーロープ)を探知して追い込みするためのエリアへは入ってこないと思われる。それこそが私の目指した網移動の目的だった。いま初めてこの紙面をお借りして宣言をする。

最大の目的がこれだった。しかし私にはかなり大きなリスクもある。イカ釣りの漁場が閉ざされてしまったことだ。

全くできないわけではないがそれまでの広々とした漁場がほとんど使えなくなってしまったのだ。その昔・・・富戸の港前の湾は富戸の漁師だけの専用漁場だった歴史がある。

その権利を放棄した以降、東北からの船さえも来た、有名なイカの漁場なのだ。私の二代前の先祖(爺さん)は鎌倉市腰越から毎晩船でイカ釣りに来ていた。その船に私の親父が乗っていて、その腕の良さで富戸に婿入りをしたのだった。さらに、富戸の家の爺さんは同じ鎌倉市腰越の漁師で富戸に婿に入っていた。同じ港の爺さん同士の縁で親父が婿に入ったわけだ。そして俺が後を継いだ。終戦直後、鎌倉からイカ釣りに来て、帰る時間になると富戸の船から海上渡しでイカを買い付けていた。自分達の釣ったイカと買い付けたイカを積んで明け方に鎌倉に帰り、富戸から買ったイカは一尾一円だったそうで、それでも富戸の船は喜んで売ってくれたという。

それを一尾七円で売ったと親父は言っていた。昔の船はエンジンや燃料は当然ながら今のように性能や品質は良くなくて、それらが原因で途中で漂流したこともあったという。

私は六代目の漁師だ。イルカ漁に関しては三代目だ。

我が先祖は、伊豆大島波浮の港の開港に携わって、灯台のもとになる燈明も作ったと言われている。そして、伊豆大島近海で遺体を収容し、紀伊半島まで届けたという。おそらく着衣から場所が分かったらしい。当時は帆で動く船だったそうだ。

また、鎌倉の船は「隠居丸」と言い、相模湾の漁師の神様といわれていたことは私も当時の漁師に聞いたことがある。

カジキの突きん棒漁でも伊豆諸島を漁場としていたそうだ。

私が鎌倉の町を歩いていると爺さんによく似ているから誰からもすぐに佐吉さんの孫だと言われたことは私も記憶している。面白いことに・・・隠居丸は西郷隆盛の弟の西郷従道(元帥、海軍大将)と、とても親交が深く(一緒に映っている写真もあった)政府から隠居丸だけが許された漁法があったという(どうしてかはわからないが、今だったら大問題だけど昔は・・)そして皇室の方も船に乗りに来たという。実際に船に乗るときに背負った人の話を聞いたことが俺はある。海鳥を銃で狩りをするのだが、皇室の人が銃を撃つとその瞬間にお付きの人たちも銃を一斉に放ち確実に仕留めたという。その話は鎌倉の爺さんが亡くなり身内(俺も身内だ)が爺さんの枕元で昔話に花が咲いている時の事だった。

さてまた元に戻ろう・・・

それから定置網の移動がなされ現在に至っているが・・・

ある時、ある人物と会話をした時に・・・『光海丸さんはイルカを殺すなということだけど、富戸はもう殺さない』ということを数回聞いたことがある。あくまでも個人的なことだが組合関係者なのだ。さらに、富戸がイルカを捕獲できない年が12年も続いている。いまだに捕獲枠があり、捕獲したいと宣言をしているが前述のように追い込み捕獲は出来ないということを漁師の立場の私が断言しても過言ではないだろう。

もはや富戸のイルカ捕獲は過去のものになり言い伝えだけが残っているということも事実だろう。

船の上でも陸(おか)から海を見ても平和な海が広がっている。鮮やかな夜明けの太陽、そして夜には満天の星。

いま、富戸は完全に平和な海が戻ってきている。

私も漁協の人たちとも仲良くしている。

21年前の出来事はすでに二昔前のことであり、しかしイルカ捕獲が不可能な状況になるまでにはそれだけの期間が必要でもあったのだろう。私はこれからは平和な富戸の海を監視しつつ

観光にも力を注ぐ決意である。我が二人の息子たちは光海丸の2代目でなく、隠居丸7代目として富戸の前の海を行き来している。それらの観光的な活動も楽しみである。

三歳(昭和26年)の時にイルカ追い込みを初めて見て以来、

幾多の追い込みを見、経験をしてきた。

今は平和な富戸の海がかつて海面が真っ赤に染まり、その海でイルカ達の親子が離れ離れになったことも見てきた。

あの子、そしてあの親はその後どのように悲しみを乗り越えたのだろうか・・・それを思うと今も悲しさが胸によみがえる。

夏になると海遊びをする海岸にイルカの骨が打ち上げられているのもたくさん見てきた。その横で冷えた体に暖をとるためのたき火を囲む子供の時のことが鮮やかに蘇る。

その蘇ることがイルカ捕獲の残忍さを世間に訴える彼らの死が無駄になっていないことが事実なのだと思っている。

小学、中学生の時に授業をさぼってまでイルカ捕獲にのめりこんだ私は、たぶん世界でも珍しいのだと今でも思っている。

どれを思い出しても楽しいことは全くなかった。

それがイルカ捕獲現場を知り尽くした私の思いだ。

そのなかで・・・

思い出される言葉が今もある。

私は三隻あったイルカ探索船に乗った最後の漁師だと思っている。夜間のイカ釣り漁から帰って寝たばかりの夜明けごろ漁協からの電話で、イルカ探索に出かけた。船には四人乗りこみフライングブリッジに立ち四方八方探索をし続ける。

波にもまれながらの程よい眠りを誘われときどき居眠りをしながら・・・。

イルカ追い込み責任者の言葉が今も鮮明に覚えている。

『この光景を観光客に見せたい・・・』

イルカ追い込みの漁労長さえそのように思っていたことが内心、驚きに近いものだった。

イルカ達はのどをカッキラレ、暴れのたうち回るのに、人間を噛み付くことは一切なかった。

ただただ苦し紛れに暴れるだけ。

それこそが私の言うところの・・・

『無抵抗の抵抗』なのだと断言する。

だからこそ・・『かわいそう』だとの思いが沸き起こると思っている。そして幾多の命を奪ったイルカ殺しの経験者の中で私の様な漁師が出てくることを長いあいだ持ち望んでいたに違いないと決めつけている。

歴代の組合長の一人の言葉が今も有りがたく耳に残っている。

『組合を預かる長として大きな声では言えないが、イルカウオッチングは浸透するまでに20年かかるだろう、だから頑張れ、そしてオメェに続く漁師のために頑張れよ、俺も陰ながら応援する』

その組合長はとても気さくな人で、私が船を建造するときにアドバイスもくれた。

私が組合に用事もないのに行くと組合長室に通され、常務も一緒に世間話もした。職員がお茶を出してくれるときには、私のことを『光海丸さん』と呼んでくれて、組合長と二人きりになると『泉、オメェはよ~・・・』と気さくに話しかけてくれた。

歴代の組合長でこの人だけが、イルカ捕獲反対をする団体とアメリカのカメラマンを組合長室に入れて彼らの意見を聞いてくれた人でもある。

そのことは書かずにはいられないだろう。

私がウオッチングを始めて今年で16年になる。

組合長が予言した20年まであと4年残されている。

それまでは頑張らなくてはならない。

私は今70歳になった。

これからは一見平和な海になった富戸の海を観光発展のために努力をしなければならないと覚悟している。

I pray for the peaceful sea for dolphins.

この言葉を胸に平和な発展を望む。

私は物書きの端くれとして執筆活動もしている。

そして講演活動もしている。

だが・・・

過去の富戸のイルカ捕獲違反事件に関しては今日で

筆を折ることにしよう。

再び不穏な動きが無い限り・・・

青い海と青い空を見つめながら・・・・・

静岡県伊東市富戸1301-60

光海丸・石井 泉(隠居丸6代目)

© Izumi Ishii KOHKAIMARU 石井 泉

https://www.youtube.com/watch?v=Y-oMOjlLwrk